• 349【昭和22年9月1日】
    2023/08/31(木) 21:24:06 ID:Kek78Ljs0
    【昭和22年9月1日】

    木炭バスと言われても、想像もつかない。
    ただ、故障が多かったとか。
    それでも、その日の故障は最悪だった。
    長崎市の北の入り口、打坂。馬を鞭で打たないと登らない坂という意味らしい。またの名を地獄坂。曲がりくねった道、片側は崖。現在では想像もつかないが、当時の地形図はまさにそうなっている。
    そこで故障。
    ハンドルもブレーキも効かない、最悪の事態。
    バスはずるずると崖に向かって後退していく……。
    若い車掌が飛び降りた。
    近くの石をタイヤに噛ませ、輪止めとするが、三十余の乗客の重みのかかった車体には効果がなかった。
    ずるずると、ずるずると、崖へ。
    しかし、奇跡は起きた。
    何かに乗り上げてバスは止まった。
    ……もう、想像はつくのではないだろうか。降り立った乗客や運転手が見たものを。
    横たわった車掌の体と、それに乗り上げたタイヤ……。

    「息はある!」
    自転車の急報を受けた麓の営業所の職員は、軽トラックで現場に戻り、彼を荷台に載せた。
    炎天下。荒い息は徐々に弱くなっていく。
    ……結局、助からなかった。
    この勇敢な車掌の名は、鬼塚道男さん。享年、二十一。
    これだけの出来事なのに、長く人々の記憶から消えていた。
    それが一番 信じられない。
    現場に地蔵尊が祀られ、顕彰碑が建ったのも、事故から時を経てからだった。
    語る義務があるのではないか? 知った者には。
    騙りがあってもいいのではないか?  顕彰の目的ならば。
    SNSは、その手段となりえないか?
    何度でも、語る。間違いを恐れずに、語る。
    涙にぼやける液晶画面に、すべてを託す。
    今日も地蔵尊は、安全と生活を見守っている。
    生者が怠惰ではいられない。
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