ステルス機
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回答ありがとうございます。
今後の参考に致します。
ありがとうございました。 -
国産ステルス機開発への流れとして太平洋戦争後の技術立国としての日本の復活について
皆さんご存知の通り我が国日本は1945年に太平洋戦争でアメリカを含む連合国軍に負けて敗戦しました。
無条件降伏を受け入れたため日本に進駐して来た占領軍のリーダー格だったアメリカ軍によって出された様々な禁止事項を受け入れるしかありませんでした。
敗戦前までの各分野でのリーダー的存在だった人たちは公職に就くことを禁止され財閥は解体され兵器開発生産の設備や工場は破壊し尽くされ兵器開発生産は全面禁止され航空機開発生産関連の仕事も禁止されました。
おりしも世界はプロペラ機からジェット機に移り変わろうとする大変革の時期でした。
この大事な時期に日本は10年間あまり航空機開発生産関連の仕事を一切してはならないと禁止されていたため日本は必然的に航空機分野において世界の国々から大幅に立ち遅れることになりました。
これは正にアメリカの思う壷であり日本は自前で戦闘機などを作れなくなるそしてその効果によりアメリカに歯向かえなくなり逆にアメリカから高価な戦闘機をたくさん買ってくれる大口のお客さんにまでなってくれる。
アメリカにとっては一粒で二度三度と美味しい内容でした。
アメリカは太平洋戦争を通して戦った日本人のことを放っておくと良からぬことを仕出かす実力ある民族だと考えこのまま時代が進めば必ず自分たちの商売敵になると考えこのようなことを行ったのでした。
その予測の通り禁止されなかった自動車分野の産業ではやがてアメリカへの輸出でアメリカ製自動車を駆逐してしまい国家間の経済問題にまで発展しました。
アメリカって汚い奴だなあと思う人も居るでしょうが世の中そんなものです。
・太平洋戦争集結前後のジェット戦闘機 日本の中島飛行機 橘花/ドイツのメッサーシュミット Me262A/イギリスのグロスター ミーティアF Mk.Ⅲ/アメリカのベル P-59Aエアラコメットの写真。この時点では日本もジェットエンジンとジェット戦闘機開発で他の列強国とほぼ同じ技術レベルのラインに立っていました。
・太平洋戦争集結前後のソ連の各設計局のジェット戦闘機 ミコヤン&グレビッチMig9/ヤコブレフYak15/スホーイSu9Kの写真。
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世界各国の戦闘機開発はプロペラ機からジェット機の時代に入りました。
なぜプロペラ機からジェット機へ移行しようとしたのかという理由はプロペラ機の出せる速度の限界に有りました。
プロペラ機の場合は最大速度で飛んでいる時も同時にプロペラ自体も高速で回転しているため相乗効果でプロペラ自体にとっての速度が高まりすぎてそれ以上速度を上げようとすれば音速にさしかかろうとしてその際に異常振動が起きてバラバラに分解してしまうためプロペラ機で安全に出せる最大速度はせいぜい800km/hだと考えられておりそれ以上の最大速度を目指すならプロペラに頼らない新しい動力が必要だと考えられたこと。
それとプロペラ機で使用するピストンエンジンで高速を出そうとすると高品質なオクタン価の高いガソリンが必要とされますがジェットエンジンの場合は低品質な軽油や白灯油でも使用出来た点がありました。
燃料が安価で気を遣わなくて良いということは重要な戦略物資としての燃料であることを考えるととても魅力的なことでした。
だから太平洋戦争末期の日本では松根油を松の木から採り燃料の代用品にすることが国民に奨励されたりしていました。
私の祖父さんはこんなことまでし出したら日本も終わりだ日本はもう戦争に負けると思っていたそうです。
しかしジェットエンジンが安価な低質燃料で稼働出来最大速度を出し易いと考えられていたのは確かな話です。
ジェット戦闘機の黎明期はそんなこんなで各国の戦闘機の姿を見てもわかる通り真似し真似されでイマイチ垢抜けきれない感じでした。
やがて第二次世界大戦でドイツが敗れ敗戦するとドイツの群を抜いて優れた科学技術を巡り連合国軍同士での争奪戦が始まりそれを元に模倣し自国の戦闘機を洗練していきました。
現代社会で使用されている様々なものはこの時流出したドイツの技術が基礎になっていますが戦闘機でいうと有名なのがアメリカのノースアメリカンF-86Fセイバー戦闘機とソ連のミコヤン&グレビッチMiG-15戦闘機です。
どちらも同じようなレイアウトの戦闘機で一番特徴的な部分は後方に反った後退角の付いた翼(後退翼)です。
これらニ機種はどちらもドイツからの技術に基づいて作られおりしも勃発した朝鮮戦争でお互いに戦い合うことになりました。
・レストアされて現代の航空ショーで飛行する朝鮮戦争当時のライバル同士アメリカのノースアメリカンF-86Fセイバー戦闘機(後に自由主義陣営諸国に大量に販売されたベストセラー機)とソ連のミコヤン&グレビッチMiG-15戦闘機(後に社会主義陣営諸国に大量に販売されたベストセラー機)の写真。
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こうして眺めて見るとアメリカのノースアメリカンF-86Fセイバー戦闘機の派手なマーキングと豪華な装備品類とは対照的にソ連のミコヤン&グレビッチMiG-15戦闘機の必要最小限の装備しか搭載しない質実剛健さが伝わって来ます。
キャノピー(風防)の大きさの差にも表れているようなアメリカ人とロシア人のお国柄。
贅沢品を装備するのが好きなアメリカ人。
質素でシンプルなロシア人。
このニ機種は朝鮮戦争当時としては最新鋭のジェット戦闘機でした。
どちらも最大速度はマッハ1に届くか届かないか程度でした。
世界的に戦闘機開発のこの頃のトレンドは音速に迫ることでした。
ナチスドイツの先進技術の一つだった後退翼を取り入れたのはそれを達成するためでした。
プロペラ機よりも更にスピードを上げるためジェットエンジンにして後退翼を導入しましたが更にスピードを上げて音速を超える超音速を達成することが次の世界的トレンドになり世界各国が工夫を凝らし競い合いました。
更にスピードを上げるためには空気取り入れ口に工夫を加える必要性が出て来ました。
空気取り入れ口の開口面積を可変させ吸入空気を効率的に圧縮させるということでした。
この頃に可変式の空気取り入れ口が考えられ大きく分けて二種類に分類され一つは可変式ショックコーンを設ける方法もう一つは可変式ランプを設ける方法でした。
ということでジェット戦闘機は空気取り入れ口の構造を見ればだいたいどれくらいのスピードを目指して作られた戦闘機なのかが判別出来ます。
可変式機構を持たず固定式のものはマッハ1〜1.5前後しか出せません。
何等かの可変式機構を持っているものはマッハ2〜3程度までは出せるものがあります。
朝鮮戦争の次の時代、ベトナム戦争時代に戦い合ったアメリカ製戦闘機とソ連製戦闘機の代表格アメリカのマクドネルダグラスF-4ファントムⅡ戦闘機は可変ランプ式機構を採用しソ連のミコヤン&グレビッチMiG-21フィッシュベッド戦闘機は可変式ショックコーン機構を採用していました。
・ダンプカーのように大きくゴージャスな作りだったアメリカのマクドネルダグラスF-4ファントムⅡ戦闘機の写真。この大きさにより搭載出来る爆弾も多かったため戦闘機でありながらも爆撃機のような使い方をよくされていました。
・ソ連のミコヤン&グレビッチMiG-21フィッシュベッド戦闘機の写真。(注意:写真の機体はベトナム空軍機ではありません)大袈裟な作りのアメリカ製戦闘機とは対照的に小型で小回りの効く戦闘機でありシンプルで簡便な作りだったためあまり技術を持っていない中小の国でも受け入れ易く運用し易いとして歓迎されました。
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アメリカ軍はこの戦いで小型で小回りの効くミグ戦闘機に翻弄される(ベトナムのパイロットたちは小回りの効くミグ戦闘機の特性を活かし自国上空の亜熱帯の雲を活用して隠れ突如現れ攻撃してまた雲に隠れる戦法を繰り返しアメリカのパイロットたちを苦しめました)ことが多かったため、これからの時代の戦闘機はミサイルや爆弾のプラットフォームであり機銃などは時代遅れだからもう要らないと考えていた考え方を根本から見直すことになり戦闘機本来の運動性重視の方針でF-14トムキャットやF-15イーグルやF-16ファイティングファルコンを開発することになりました。
映画で有名になったトップガンスクールみたいなもの(仮想敵部隊アグレッサー部隊を作り模擬空中戦を行う)を作るようになったのもベトナム戦争での苦い経験が理由でした。 -
世界の代表的な航空技術の流れはそのような感じであり朝鮮戦争やベトナム戦争を通してアメリカ軍にとっての日本はアジアでの前線基地(他に類を見ない世界で最も使い勝手の良い一大兵站整備拠点基地)でありその関係からアメリカの意向を強く受けた日本では警察予備隊⇒保安隊⇒自衛隊が発足し、また一方では朝鮮戦争関連、ベトナム戦争関連の軍用兵器の整備や部品生産が日本で行われるようになり徐々に日本も再び軍用機などに関わる結果となりました。
やがて自衛隊が出来たこともあり細々と自衛隊向けオンリーの軍用兵器の開発生産も行われるようになり国産ジェット戦闘機の開発も試みられるようになりました。
その最初が三菱F-1支援戦闘機でした。
三菱F-1支援戦闘機は三菱T-2超音速高等練習機を最初に開発してそれをベースにして戦闘機に仕立てたものでした。
フル国産を目指したはずでしたが大事な時期10年あまりに及ぶ航空機禁止令の悪影響で技術的ブランクが大きすぎジェットエンジン自体は国産開発とすることが出来ずヨーロッパからイギリス/フランス共同開発のジェットエンジンを購入するしかありませんでした。
悔しい話ながら結局F-1支援戦闘機は完全なる国産開発の戦闘機とは言えない結果となってしまいました。
・三菱T-2超音速高等練習機(二代目アクロバット飛行隊ブルーインパルス塗装)の写真。
・三菱F-1支援戦闘機の写真。
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F-1支援戦闘機の支援という名称は現実世界にそぐわない片寄った平和憲法に縛られる日本だけの極めて苦しい表現です。
日本以外の世界の国々でいうところの対地対艦攻撃という意味でありこれを諸外国と同じように表現すればF-1対地対艦戦闘攻撃機ということになります。
どう見ても軍隊である自衛隊を軍隊ではないと極めて苦しい言い訳をして来た日本という不思議な平和国家とピッタリ一致する表現なのでした。
まあそれはそれとして前述のように真剣に日本の防衛を考えるなら進攻して来るであろう敵の艦艇群を日本領海に近付かせないことが重要で近付く前に撃沈または大破させ日本に来れないようにする。
これを絶対必要条件として日本固有の諸条件を組み合わせて満足出来る戦闘攻撃機が必要だと考えられました。
当時調査したところイギリスとフランスが共同開発したジャギュア攻撃機というのがあり輸入・ライセンス生産を含む交渉を行いましたが条件が折り合わず相手国の出した条件に従えば日本としては得るものが少なく結局この話は無しになりました。
しかしジェットエンジンだけは日本が自前の技術で作れなかった関係上これまたジャギュア攻撃機で使われたイギリス/フランス共同開発のロールスロイス/チュルボメカのアードアというエンジンをライセンス生産する契約となりました。
しかし提供されたエンジンは元々ヨーロッパでの使用しか考慮されていないジェットエンジンであり日本での使用ではトラブルだらけの試作品レベルの食わせ者エンジンでした。
しかし日本の技術者たちは負けてたまるかと奮起し努力に努力を重ね日本の気候でも十分使用に耐えるジェットエンジンへと改善しました。
その後この改善に使われた日本の技術は只でロールスロイス/チュルボメカに使用されその新型ジェットエンジンを逆に日本に売り込んで来られるという酷い目にも遭わされました。
最初に交わした契約内容がそのようになっていたため何も抗議出来ませんでした。
これは日本人技術者たちの間ではアードアの悲劇といわれ二度とこんな失敗はしてはならないと言い伝えられているそうです。
日本のフル国産機を目指した三菱T-2/F-1は当時の世界的流行であった超音速と日本独自の要求条件によりこのような結果となりました(イギリス/フランス共同開発のSEPECATジャギュア攻撃機に全体的なレイアウトや姿が似ていますが同じような要求条件に従えば似て来るのは致し方ないことで日本は日本でオリジナルです)が見るからに主翼面積が狭く翼面荷重の高い機体でありながらアクロバット飛行隊ブルーインパルスで使用しても十分使用に耐え得る機体に出来た点は拍手するに値します。
太平洋戦争敗戦後のアメリカ軍による航空禁止令によって航空技術で世界に大きく差を付けられていた日本は悔しく苦い経験はしたもののここまで出来たことでヨーロッパ諸国に近いところまで自前の技術を成長させることが出来ました。
・一緒に飛行中の三菱F-1支援戦闘機とT-2超音速高等練習機の写真。全体的なレイアウトや姿はイギリス/フランス共同開発のSEPECATジャギュア攻撃機を参考にしたためなのでしょうか武器搭載ステーションの数が少なく搭載出来る数は限定的です。しかし空気取り入れ口の作りや操舵系は全体的に全く異なり日本のオリジナル性が見て取れます。開発の順番も超音速高等練習機から戦闘機への順番で攻撃機から練習機へと開発されたジャギュア攻撃機とは全く逆でした。
・イギリス/フランス共同開発のSEPECATジャギュア攻撃機(二機ともイギリス軍の機体)の写真。武器搭載ステーションの数が少なくそれを補うため苦肉の策で主翼の上にもステーションを設けてあります。
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日本は小規模ながら独自に技術習得の努力を重ねつつ他方では自衛隊用としてノースアメリカンF-86Fセイバー戦闘機⇒ロッキードF-104スターファイター戦闘機⇒マクドネルダグラスF-4ファントムⅡ戦闘機⇒マクドネルダグラスF-15J/DJイーグル戦闘機など大量のアメリカ製戦闘機を導入しそれに伴うノックダウン生産やライセンス生産や整備改良を通して少しずつ少しずつ技術やノウハウを学び取る努力を長年続けて来ました。
・自衛隊の戦闘機の大まかな歩みの資料。(三菱T-2/F-1が入っていませんが本来正しくはF-4ファントムⅡとF-15イーグルの間に入ります。)
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そしてこれから先の時代は運動能力向上機CCV(Control Configured Vehicle)技術が要になるとして試験機を作りコツコツと地道な技術開発を続けて来ました。
このCCV試験機開発が1978〜1987年にかけてのことでした。
この試験機はT-2超音速高等練習機の試作機XT-2を改造して作られたT-2CCVでした。
カナード翼を三枚追加したような形態に専用の飛行制御用コンピューターを追加搭載した試作機でこのコンピューターによる各舵の絶妙な制御により通常の航空機では出来ないような飛び方を実現しようという野心的な航空機でした。
・CCVの飛行特性を示す資料を三枚貼ります。 -
アメリカやドイツでも同様な開発は行われていましたが日本が一番多くの飛び方を実現していたようで意外にも上位を走っていたようです。
日本にはこの時の技術開発経験があったため後年のF-2戦闘機開発の際に無理矢理アメリカから押し付けられたF-16戦闘機をベース機体とする共同開発で開発途中になってF-16戦闘機のソースコード(飛行特性データ)は渡せないなどという露骨な嫌がらせをアメリカから受けたものの自前の技術でF-2戦闘機を実用化まで達成することが出来たのでした。
こんな事実を知るとアメリカって本当に卑怯な奴、汚い奴だと思ってしまいますね。
仕方ない。
・CCVの6自由度の制御を示す資料。
・三菱T-2超音速高等練習機の試作機XT-2を改造して作られたT-2CCVの写真を二枚。
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F-2戦闘機開発ではT-2CCVでCCV技術の開発を行っていた時代より十数年経過して更に技術が進歩していたためカナード翼が必ずしも必要ではなくなっておりカナード翼無しでも同様な飛行制御は可能であるとしてF-2戦闘機実用化ではカナード翼部分は省略され装備しなかった経緯があります。
そのためほとんどの部分を日本人が新規に作り直したにもかかわらず見た目にはアメリカ製のF-16とそっくりな別機F-2戦闘機が誕生する結果となりました。
ややこしいでしょう?
・アメリカとの共同開発を強要され作成された日米共同開発のFS-X完成予想図。当初はF-16戦闘機にカナード翼を追加したような戦闘機になる予定でした。
・実際に実用化された現在のFS-X改め⇒F-2戦闘機の写真。技術的進歩によりカナード翼は装備しないことになりました。
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双発エンジンに双垂直尾翼という姿であるため比較する対象物がない単機状態では一見大柄な機体であるかのように見えますが世界各国が開発しているステルス機の大きさに比べれば1番小柄な小さい機体となります。
F-16戦闘機かF-2戦闘機程度とかなり小型の機体です。
何時になるんだ?何時になるんだ?と多方面でささやかれていた日本製ステルス機の実機の初飛行はいよいよ来月2月の中旬になる予定です。